4月1日(木)
表現の自由? プライバシー?
天白川の桜は、何となく足踏み状態。川原に咲く、菜の花に目が行く。雨が降るといろんなものが上流から流れてくる。去年までは、菜の花なんて咲かなかったような。小橋に立って、上流を見ると堰のこちらに中洲があってそこに一本木が生えてる。今、新芽が青々。この木も確か、もともとそこに立ってたものではなく、いつぞや、雨で大増水の折りに流れてきて引っ掛かっていたのが、そのまま根づいてしまったと記憶している。野並の方が溢れた大雨の時も流されずに今だ立っている。自然は丈夫だ。人だけがあたふたしている。少しずつだけれど春の風景である。
たいした話じゃないんじゃねえかと、傍から見てて思うのが、田中真紀子氏の長女なる人物と、週刊文春の話。
privateとprivacyは、英語では、形容詞か名詞かの違いしかないと思うのだけれど、日本語でプライベート、プライバシーというと、ニュアンスがだいぶ異なる。プライベートはうちに帰って、ソファーでぐんなりしたり、お酒でもたしなんだり、隣に人でもいればいちゃいちゃする時間である。お隣の奥様の浮気の噂とか、パンツの色とか、そういうのは、週刊誌に書いたりしたらいかんと思う。芸能人相手でもほんとはいかんと思う。
というか、そんなことは、ほとんどの人は興味がないのである。もっと自分のことに一生懸命だと思う。思っていると、女性自身やらセブンやら、そういうのは、そんなのばっかりで、自分のことに一生懸命でない人が世の中には大変多いようで、驚くというか、あきれかえる。
翻って、プライバシーはどういうところに使われるかと思っていると、これは、日本語で訳するとどうも、この間のヤフーBBで騒がれた、個人情報と呼ばれるもののようだ。住所とか、家族構成とか、ネットでどんなものを買っているかとか、例えばそんなこと。恐ろしいのは、そこにあるプライバシーというものが、どんなものか、本人が知らないことである。カードを使って買い物したり、どこかのWebページを覗いて、メールアドレスなどを入力して、なにかしたりすると、この人はこんなことをしたという情報がどこかに蓄積される。そうしているうちに、その人の、個人像というものが、どこかで形成される。amazonという本屋さんでも、ある本を見ていると、これも買いなさいと奨めてくる。あなたみたいな人は、これがお似合いですと言ってくる。自分の知らない、私はこんな人という情報を誰かが持っているわけである。そういう人たちが、なんとかさん、あぁ、あの猟奇的な人ね。とかいう会話をして僕の噂をしているのは、そういう評価も悪くはないが、気持ちが悪い。
そういう情報がやり取りや、売り買いされていることは、未承諾広告というメール、どんどん多くなってくるのを見れば分かるのだけれど、これ、突然広告メールを送り付けるときは、こうしなさいと法律で決めてしまったおかげで、そういうメールの存在を認めてしまったことになって、帰って迷惑千万である。
お芝居でも、初めての地方で公演したり、客演をしてくれたりしたとき、ご案内の名簿を貸し借りすることはあると思うのだけれど、その場合も、このご案内はどこそこの協力でお送りしています、という一文を載せるのは、当然の礼儀だ。少なくともナビの時は、基本的に外に出すの禁止、身内の個人プロデュースとかで使うときは、必ず載せていた。
同じように、もし法律にするのなら、あなたのメールアドレスはどこそこから手に入れました。という文を必ず入れなくてはいけないようにしてほしかった。
また、長々と話がそれてしまったけれど、それに加えて、プライバシーという言葉には、日本では、その人の、政治的、社会的活動に関わることというニュアンスがある。個人的なことに社会的とは矛盾であるけれど、政治家の収入や資産はプライバシーであって、あれは、私のプライベートな事柄ですからとは言わない。
まぁ、人はみんな、大事なワタクシというのは持っていて、ほとんどの人は、そんなアナタには、ワタクシ興味ありませんと、そういう態度で、彼や彼女の、ワタクシというものを尊重して暮らしているのが普通のところだと思うのです。田中真紀子氏の「長女」という言葉には一瞬ぐらっとくることもくるが、あの人の長女であるから、もう随分おばはんなわけで、やっぱり興味ないし、今となっては、樹海で見つかったジュビロのある磐田市長の長女が気になってしょうがないのでございます。すみません、不謹慎でした。
個人的な考えでは、プライバシーというのは、社会的な地位も名誉もない自分にとっては、プライベートなことと同義で、それが知られても、恥ずかしいという感情以上のものはない。もちろん恥ずかしいという気持ちは、実は、痛いとか、苦しいとかいう感情と比較しても、随分つらい状態で、そういう事態に陥りたくはないので、プライバシーも、プライベートも守りたいのである。そして、その本当に個人的な感情と、社会的な地位に関わるプライバシーの境界があいまいなことが法律で守るべきプライバシーという問題を難しくしていると思う。回復できない損害というものがどんなものかは知らない。でも、裁判所から、それほど大げさなもんじゃないんじゃないの、とは、いわれたくない気分である。
いずれにしても、憲法にはっきり単語として登場する表現の自由と、憲法の運用である法律でしか保護されていない(これ自信ありません)プライバシーとでは、大人と子供のけんかで高裁の逆転判断は至極まともなこととなってしまったようである。もう、次の興味は、東京高裁が、これは、表現の自由には敵わないけれど、重大なプライバシーの侵害であると、判断をしてしまった。この損害に対する慰謝料は当然請求されて、また裁判になるのであろうけれど、いったいいくらなのでしょうということです。
また、小市民の僕などは、恥ずかしくて人に会えないから、山に隠って、生活品は全部宅配で暮らすとして、生きたくないけど、万が一100歳まで生きてしまうかも分からないから、後60年×・・・うーん一年の生活費、いったいなんぼや!! などと考えてしまう。仮に500万として、3000万。安い、安すぎる、のかな? 500億位請求して欲しいものだ。文春側の敏腕弁護士の腕の見せ所である。え? まだ安い?
ついさっきまで岩井志麻子さんなど読んでいて、いきなり書き始めたので、めたくそな文章になってしまいました。なんて書いたら、岩井さんに怒られそうです。